2015年3月23日月曜日

アザレアとにいがたの物語

先週から、全国の鉢花生産量の80%を新潟県が占めるという
「アザレア」が、ネスパスを彩ってくれています。



先週はつぼみの多かった鉢も、このところの暖かさで多くが開花。
ほどよいボリューム感になってきています。

1月にご紹介したチューリップ、2月にご紹介したクリスマスローズ、
そして今回のアザレア。
いずれも、新潟県が日本有数の出荷量を誇る植物です。

なぜ新潟県で花の生産がそんなに盛んなのでしょうか??
アザレアと新潟の関係は?

今日は少し歴史をさかのぼり、そのヒミツをさぐってみたいと思います!!



江戸時代

現在花卉産業で有名な新潟市秋葉区は、古くから花き園芸生産が盛んで、
その歴史は江戸時代までさかのぼります。

※秋葉区は新潟のどの辺り?↓



新潟は昔から米作農家が多数を占めていましたが、信濃川流域沿いに
広がるこの地域は、昔から洪水による被害が多かったため、
水害に強い花木を栽培し、花卉産地としての基盤を築いたといわれています。

そして江戸時代末期、それまで禁止されていた副業が奨励されると、
ますます園芸植物の生産が盛んになっていきました。

一方、19世紀初頭からアジアに派遣されたヨーロッパの植物採集家は、
江戸時代末期に日本を訪れ、日本の花を代表するサクラ、モミジ、
ツバキ、アジサイ、ボタン、ユリ等を持ち帰り、西洋に紹介しました。

日本の数多くのツツジと共に、中国からはタイワンヤマツツジが西欧へ渡ります。
後にベルギーで品種改良が進み、アジアのツツジから生まれた
「ベルジアン・アザレア」は、西欧で大人気を博しました。


明治~大正・昭和時代

明治時代に入ると、日本にも洋種の花卉の輸入が開始され栽培が流行。
1914年以前にはベルギーだけで250万鉢が世界各地に輸出されていた
アザレアも、明治時代に日本に渡りました。

その後国内で一般向けに販売されはじめたものの、
販売当初はその人気は今ひとつ…。だったといわれています。
その要因の一つに、名まえが覚えにくかったのではないかという説が。

ヴァーヴァネアーナ・アルバ(Vervaneana Alba)、
マダム・モーリュー(Madame Morreux)、
スーベニール・ド・サン・ジョセ(Souvenir de San Jose)、
など…

長くて発音しにくく、今の私たちにもなじみにくい名前ですね~。
西洋とはいえベルギー・オランダで作出された品種が多かったため、
このように日本人にとって覚えにくい名前が多かったようです。

その後それらは大八洲、天女の舞、晴朗などと優雅な日本名がつけられ、
その後のアザレアブームに一役買うこととなりました。

ある花園のカタログに掲載されていたアザレアの種類は、
大正期には10品種→1931年には60種類に増加!
このことからも人気の上昇ぶりがうかがえます。

1931年に上越線が全通。新潟港は東京から鉄道で最も近い
日本海側の港となり、アザレアは国内だけでなく満洲や朝鮮にも
大量に輸出され、広く流通していきました。

しかし、その後戦争の影響で花卉栽培は困難な状況となります。
1943年に園芸植物を含む不急作物の作付が規制され、
アザレア栽培に必要な温室も爆撃の目標になるということで取り壊され、
1945年8月、敗戦により多くの園芸植物が滅亡に瀕しました。

敗戦直後、アザレアは一部の品種の親木を残すのみとなりましたが、
1950年ごろには品種も30を超え、生産量も徐々に回復していきました。

1973年には施設や整備の近代化を背景に、新潟県のアザレア生産量は
全国シェアの95%を占めるまでに成長します。


そして今!


江戸時代に改良された野生のツツジは、西欧でアザレアに変身し、
日本に里帰りした後、新潟で大きく発展しました。

近年では品種改良により肌色や濃紅色など変わった色のアザレアや、
テーブルの上で観賞できる小型アザレアも販売されています。

長い歴史の中で形や名前を変えながら、世界で愛され続けてきたアザレア。
この機会にぜひ、ネスパスにみにいらしてください。

参考サイト:
「にいがた花物語」
「にいがた文化物語」