2014年3月25日火曜日

映画『夢は牛のお医者さん』親子試写会☆

2014年3月21日、ネスパス3Fにて、
映画『夢は牛のお医者さん』(製作:TeNYテレビ新潟)
親子試写会が行われました。


◇映画「夢は牛のお医者さん」公式HP◇
https://www.teny.co.jp/yumeushi/


※テレビ新潟(映画制作者)からのお願い※
映画に関しての取材やご感想は下記連絡先へお願いします。

≪テレビ新潟事業局企画開発部≫
TEL 025-283-8140 
(月~金9:30~18:00)

※主人公の知美さんは「一般人」です※
現在も子育てを続けながら、日々牛の診療を続けていらっしゃいます。本人への直接取材や訪問は、診療や家庭生活の妨げとなる恐れがあり、実家や牛舎への取材や訪問も、伝染病など衛生管理のうえでも、避けて頂きますようお願い申し上げます。


◇◇◇

本作は、「獣医になりたい」とまっすぐに
夢を追った、新潟県のとある女性(知美さん)の
26年間に密着したドキュメンタリー映画。

もともとは、日本テレビ系列「ズームイン!朝」の
ワンコーナーのがきっかけで、TeNYが取材を続け、
今回、映画化となりました。

会場には、フリーアナウンサーの徳光和夫さんや
TeNY「新潟一番」でおなじみの堀アナウンサー、
時田美昭監督が登場。また、本作でナレーターを
務めたAKB48の横山由依さんもビデオメッセージで登場し、
大いに盛り上がりました(^^)

左から、徳光さん、時田監督、堀アナウンサー


一般公開は、3/29(土)~ポレポレ東中野にて。
新潟では、新潟シネ・ウインドや十日町シネマパラダイス、
高田世界館などにて順次公開予定!

ちなみに、ネスパス1F食楽園でも、~3/28迄、
お得な前割チケットを販売していますよ~!
(通常1,700円⇒ネスパス前割1,300円





---映画『夢は牛のお医者さん』の魅力。


映画上映後、大きな拍手に包まれた会場でしたが、
この拍手には、2つの意味があるように、
スタッフTは感じました。

ひとつは、主人公の知美さんへの拍手。

もうひとつは、本作を“ドラマ”として
作り込むのではなく、
ひとりの人間の姿と人生を、
ありありと捉え続けた、制作者への拍手。


徳光さんは、本作について、

「知美さんは、テレビに何一つ媚びていない。
 まずこれがすごいよね。

 同時に、26年もの月日をかけて取材を続けた時田監督。
 ふたりの関係性があってこその、作品なんじゃないかな。
 それをテレビ局(TeNY)が後押しすることもすごいし・・・

 なかなかできないことですよ。」




---映画のあらすじ

◇◇◇
児童9名の小さな小学校に、クラスメートとして“入学”した3頭の子牛。運動会に日々のお世話・・・子どもたちと3頭は、楽しい時間を過ごします。しかし、お別れの日がやってきます。そこで行われたのが、“牛の卒業式”。当時小学3年生だった主人公・知美さんは、この経験から、「牛のお医者さんになりたい」という夢を抱きます。

高校生になった知美さんに再開した当時の取材ディレクター(時田監督)は、夢にむかって進む彼女の強さに動かされ、密着取材を再開。様々な試練をクリアして、晴れて獣医になった2003年春。「ズームイン!!SUPER」で知美さんの姿が全国放送され、大きな反響が寄せられました。しかし、知美さんはこう話します。

「夢が叶ったのではない。ようやく夢のスタートラインに立っただけ」

夢には続きがありました。獣医になり、結婚・出産、子育てを経験しながらも畜産獣医を続ける知美さんの「今」の姿を通して、「夢」そして「夢の続き」、さらに「家族・故郷・仕事の喜びと現実」を加えた、ひとりの女性の26年間を捉えた、ドキュメンタリー映画です。
◇◇◇



---“ドキュメンタリー映画”という強み。


あらすじを聞くと、「よくあるサクセスストーリー?」
と思われかねませんが、それはちょっと違います。

なぜなら、この映画が完全ドキュメンタリーだから。
お芝居ではなく、作りものではなく、
全てが現実に起こっていることです。

『こういう風に生きている人が実際にいるんだな、
 これって現実に出来ることなんだな』
これが、生きる勇気になるような。
映画なんですが、報道番組のワンコーナーを
見ているようでもありました。




撮られる側の知美さんは、時田監督を
「カメラを持って時々遊びにくる親戚のおじさん」
のように思っていたそうです。
テレビの人だ!と意気込んでいたのではなく、
親戚のおじさんがそこにいる、という感覚。

主人公の知美さんは、誰かの気持ちに訴えたくて
夢に向かってきたのではありません。
ただ一生懸命に、自分の人生を生きているだけ。



撮る側の時田監督も、伝えるために作るのではなく、
自分の夢“知美さんの夢に密着し、見届けること”のために、
彼女の生活の要所要所を、「捉え」「記録して」きた。

それを、“誰かの力になるのなら”と、まとめ上げた。



メッセージありきの作品ではなく、
“とある人間の姿に魅せられて”、とあるテレビマンが
『この姿はすごい』と思ったから、映画になった。

お芝居ではない。

現実にひとりの女性が今を生きる姿。
この姿が、私たちを強く励まし、揺さぶります。




---時田美昭監督からのメッセージ


「今回の試写会には、北海道から参加して
 くださった方もいらっしゃいました。
 嬉しい限りですね。
 この映画を見て、畜産獣医になりたい人が
 少しでも増えてくれたら。

 実は、最初に“牛の卒業式”を取材してから、
 学校が廃校になって、4年間ほど、
 取材のブランク期間があったんですよ。
 獣医になりたい、って彼女の夢は知っていた。
 でも当時は、子どもの夢だな、と流してしまっていた。
 
 だけど、高校生になった彼女が、
 下宿をしてまで遠い進学校に通って、
 「3年間はテレビを見ない」って、
 夢のために真剣に取り組む姿を知って。

 私は、彼女の夢を真剣に受け止めていなかった。
 テレビマンとして、自分を恥ずかしいと思いました。

 それからの私の夢は、
 「彼女の夢に密着し、見届けること」。

 実は、知美さんが獣医になった、夢を叶えた時に、
 「ズームイン!!SUPER」でそれまでの取材内容を、
 放送したんです。想像以上に反響が大きくて。

 その後、東日本大震災が起きて、新潟県にも
 多くの方が避難されてきました。
 
 何もかも失ってしまった人だっているかもしれない。
 それでも、もしかしたら、知美さんの姿を見たら、
 もう一度、夢や希望を持つことができるかもしれない。

 東日本大震災を経験した家族・そして子どもたちに、
 もう一度、いや、新しい『夢は牛のお医者さん』を
 見てもらいたいと思った。
 
 全国の人に見てほしい。
 だけど、TeNYは新潟のテレビ局です。

 だから、テレビ番組ではなく映画にしたかった。
 当然、社内からは「無理だ」という声もありました。
 でも、私は知美さんの生き方を見続ける中で、
 「はなから諦めるのではなく、挑戦する」ことが
 大事だということを、彼女自身から教わってきました。

 結婚して、子育てをしながら家畜の獣医を続ける
 「今」の知美さんを通して、
 「夢の続き」だけでなく、「家族・故郷・仕事の喜びと現実」を
 加えた26年間を描こう。

 誰にも愛されるプロの獣医になった知美さんの姿・・・
 彼女の生き方が、私の背中を押してくれたからこそ、
 この映画は完成しました。
 私の新たな「夢」が、ここに実りました。」




----最後に。



徳光さんは、今回のイベントの〆に、
こんな川柳を詠んでくださいました。


“よろこびの なみだも 別れ なみだかな”


知美さんが、獣医になれた時の喜びの涙。
親に迷惑をかけたくないと1本勝負で受験した
大学受験に合格した時の喜びの涙。

すべての始まりは、小学3年生の時に経験した、
「牛の卒業式」で流した別れの涙でした。

なんて素敵な川柳なんでしょうか。

ちなみに、時田監督も26年前の「牛の卒業式」で見た
小学生のみなさんの涙に、
『こんなに綺麗な涙、見たことがない。』とコメントされています。

もちろん、映画を見ている徳光さんの目からも、
光るものが流れていたのは言うまでもないお話・・・(^^)☆


◇◇◇

最後に、主人公・知美さんからのメッセージ。


「獣医として、自分はまだまだです。
 はじめに映画化のお話を聞いたときは、
 驚きました。

 でも、時田監督の気持ちに共感し、
 また、ひとりでも多くの人の心が、
 温かくなるのであればと思い、
 映画のお話をお受けいたしました。

 ひとりでも多くの方の心が、
 温かくなればと思っております。」


◇◇◇


何度も言うようですが、知美さんは普通の「一般人」です。
くれぐれも、映画に関しての取材やご感想は、
まず、テレビ新潟事業局企画開発部へ!
(TEL (025)283-8140(月~金9:30~18:00)


映画『夢は牛のお医者さん』。
新潟発の、素敵な映画がまたひとつ公開されました。

公開が楽しみ!
劇場にて、ぜひご覧ください~(^^)!!!



◇映画「夢は牛のお医者さん」公式HP◇
https://www.teny.co.jp/yumeushi/

2014年3月20日木曜日

NICOビジネスマッチング「あたらしい息吹」が開催されました。

3月19日(水)、ネスパス3Fにて
新潟企業のプレゼンテーション&ビジネスマッチング
「にいがたからの新しい息吹」が行われました!
(主催:にいがた産業創造機構)



今回、商品や事業について説明してくださった
新潟の企業さんは、

・こめ印化粧品(株式会社美SYNDICATE)
越後かに米こしひかり(株式会社花の米)
Prairie−ぷれり−(hana*kiku)
・胎内高原ビール(新潟ビール醸造株式会社)
・たがいにプロジェクト(したまちオフィス)

の5団体!

東京のバイヤーさんやマスコミ関係者さんに向けて、
商品や事業、今後の展望などをお話しいただきました。


・こめ印化粧品(株式会社美SYNDICATE)




新潟県でも美魔女で有名な、
株式会社美SYNDICATE 代表取締役 斎藤和美さん。

こめ印化粧品◆
http://comecosme.jp/

新潟の女性は肌が白くて、肌が綺麗な美人が多いと言われます。

この「こめ印化粧品」は、そんな新潟の食の王様、
「お米」の保湿成分や保水力に着目して開発された
新潟らしい化粧品。

「成分は玄米のもみがら部分から抽出しています。
 “ご当地コスメ”として展開したいと思っており、
 県内のお土産屋さんを中心に、ネット通販も行っています。
 女性だけでなく、男性からのリピーターも多いのが特徴。
 海外への展開もできたらいいなと考えています。」




越後かに米こしひかり(株式会社花の米)


◆株式会社 花の米◆
http://kanimai.jp/

肥料にカニの殻を使った新商品「かに米」や、
旅館や料亭などからも人気の看板商品「花の米」などを、
稲に負担の少ない「への字農法」でおいしいお米を作る
株式会社花の米 代表取締役 黒川義治さん。


「私のところは、“への字農法”でお米を作っています。
 田んぼを作るのに、最初に肥料をたくさんやった方が
 楽で効率がいいんです。植えた後から肥料をやるのは、
 結構大変だから。

 でも、稲の成長も人間の成長も同じ。
 赤ちゃんの頃はあんまり食べれない。
 成長期にたくさん食べて、大きくなる。

 植える前に肥料をたくさんやって田んぼを作ることは、
 赤ちゃんのときに一番大量にごはんを食べさせて、
 成長期に栄養が少なくなってしまうのと同じ。

 成長に添った栄養バランスを考えて、
 正しいタイミングで肥料を与えることで、
 手間がかかっても美味しいお米を提供したい。」






Prairie−ぷれり−(hana*kiku)


上古町でハーブティーやアロマ商品を開発・展開されている
hana*kiku 代表 菊池展世さん。

◆hana*kiku◆
http://hanakiku-aroma.com/

新潟産の和ハーブをブレンドしたハーブティーなど、
地域に根付いた商品展開も魅力です。

「香料のついているハーブティーは美味しいけど、
 最近は健康志向や本物志向が高まってきて、
 香料なしのハーブティーを、まず自分が飲んでみたいと思って。
 でも、やっぱり美味しくなかった。
 試行錯誤する中でブレンド比率を見つけて、
 ハーブの風味を最大限こわしたくないから、
 手作業でパック詰めまでしています。

 完全オリジナルブレンドに対応しているので、
 〇〇カフェオリジナル、という、お店のニーズに
 合わせた商品開発もできます。

 今後は、ギフトとしての展開を強くできたらと考えています。
 ウェディングギフトや、今は日本茶が主流ですが、
 ご長寿ギフトとしても展開していけたら。

 サッカー選手がアロマを活用して疲労回復をした例など、
 アロマ・ハーブの薬理効果に注目が集まっています。
 香りの業界は、今後の展開次第できっとおもしろくなる。




・胎内高原ビール(新潟ビール醸造株式会社)


平成11年~胎内市が運営していた胎内ビール園を、
平成25年に民営化というかたちで受け継いだ、
新潟ビール醸造株式会社 代表取締役 福岡 潔 さん。

◆胎内高原ビール◆
http://www.tainaibeer.com/

「他との違いは、やっぱり「水」。
 胎内の奥の方には、全国的に希少な野鳥、
 アカショウビンの生息地もある。
 この鳥は清冽な水源がないと生息できない。
 このおいしい新潟の水で、本場ドイツで学んだ技と、
 こだわりの素材で作っています。

 地ビールのビジネスモデルとしては、
 付属のレストランでビールを消費するのが主流。 
 でも、冬の間、半年間も雪でほぼ閉鎖状態になってしまう
 胎内高原ではこれでは無理。
 近隣観光客へのアプローチや、新潟県のもっている良さを活かし、
 全国進出へと展開していく中で、ブランド力をつけていきたい。」




・たがいにプロジェクト(したまちオフィス株式会社)



地域活性化モデルであり、新潟ガールズ集団Lilly&Marry's代表、
そして、したみちオフィス株式会社 代表取締役でもある、
今井美穂さんから「たがいにProject」についてのご紹介。

◆たがいにproject
http://shitamichi.wix.com/tagaini

にいがたを逆に読むと、たがいに。

 たがいにプロジェクトは、復興支援、地域活性化、ビジネス、
 3つ全て含めて「たがいに」を実践し、誰かが困っていたら
 みんながたがいに作用するためのプロジェクト。

 東日本大震災の次の日に立ち上がって、
 岩手県大船渡への定期的支援物資の供給からスタート。
 やることが決まっていて、やるんじゃなくて、
 たがいに何をやるか考えるところからはじめます。

 ここから「たがいにみやぎ」という、仙台での活動をはじめ、
 全国に「たがいに」の団体が自然発生的に広がっていった。
 新潟では、“たがいに SAKE project”~飲んで復興支援、
 というような、各地域や団体の特性に添った、
 それぞれの取り組みをしています。」



ちなみに今井さんは、今回のイベントの司会進行も兼任。
ありがとうございました!!


◆◆◆

会場からは、新潟らしくお酒とコラボしてみるのはどうか?や、今後の具体的な消費の可能性は?など、プロの目線からのアドバイスやご意見、ご質問などが積極的に交わされ、終了後はネスパス地下1Fレストランで更なる親睦を高める交流会へ!


にいがたからの新しい息吹は、これからどんな風に伸びていくのでしょうか?
楽しみにしています(^^)!!!

2014年3月17日月曜日

“魔法の炊飯器”蒸しかまど/小田製陶所 小田正雄さん ~新潟仕事人vol.16

新潟は米どころ。
おいしいお米は、おいしく炊いて、
おいしくいただきたいと思うのが、
人の常。

土鍋ごはんが美味しいのはご存じのとおり。
しかし、“魔法の炊飯器”ともいわれる、
「蒸しかまど」を、みなさんご存じでしょうか?

蒸しかまどとは、大正~昭和初期に
大きな料理屋さんやお屋敷などで使われていた、
木炭などで炊く幻の炊飯器のことです。
昭和20年代以降、便利なガス釜や電気釜の
普及とともに、姿を消してしまいました。

この「蒸しかまど」を現代によみがえらせたのが、
有限会社 小田製陶所  代表取締役 小田正雄さん。
(新潟県阿賀野市)

http://www.odakame.com/2010/02tutitotomoniikiru.html




「蒸しかまどは、15年くらい前に、
 うちの倉庫から偶然、発見したんです。
 私も、うちの親父も使い方が分からなくてね。笑

 90歳を超える祖母に聞いて、ようやく、
 蒸しかまどだと分かりました。

 『昔、奉公に行った先で、旦那様用のご飯を、
  毎食、蒸しかまどで炊かされており、
  つまみ食いしたら、それはそれは美味しかった』
 そう、話してくれまして。

 それで、祖母が炊き方を覚えていたんですね。

 実際に自分たちでも炊いてみたら、
 すごく美味しくって!
 「かつて自分の会社はこんなに素晴らしい
  技術をもっていたのか・・・」
 と感動を覚えました。

 ちょうどその頃、阿賀野川流域を舞台に地域再生を目指す
 「一般社団法人あがのがわ環境学舎」さんと交流もはじまって。
 蒸しかまどは、阿賀野川の豊かな土壌(粘土)から作られるものなので、
 ある時、「阿賀の宝もん」として蒸しかまどを紹介させてもらったんです。

◇一般社団法人 あがのがわ環境学舎◇
http://aganogawa.or.jp/aboutus/

 そしたら、環境学舎の方から咲花温泉組合
 (阿賀野川の対岸の温泉街)をご紹介いただき、
 咲花温泉のイベントで蒸しかまどを披露しました。

 「懐かしい」「美味しい」と言っていただいてね~!

 「面倒でも、この蒸しかまどを作ってくれないか?」
 そんな声を受けて、
 復刻することを決めたんです。」





◆◆◆
小田製陶所は、その名のとおり、土をつかって陶器をつくる会社です。明治6年に水を保管するための甕(かめ)を作ることからスタートし、かまど、蒸しかまど、潟の整備のための素焼き土管、植木鉢など・・・時代のニーズに合わせた「素焼き」商品を展開されています。

現在の主力商品は、植木鉢などの他に、田んぼを支える「素焼き土管」。おいしいお米や農作物を作るためには、地下水をコントロールする仕組みがもつくっています。新潟のおいしい食を、まさに“見えないところで”支えているのが、小田製陶所さん。




----土とともに生きる。

「小田製陶所は、私で5代目。
 創業は明治6年、当時は水甕を作る会社でした。

 父はまっすぐな素焼きの職人。
 自分は長男で、家を継がなきゃいけないんだろうなあと
 思ってはいたけど、でも、昔は嫌ね~笑
 熱いし、重いし、体力面でも、
 大変なのが分かっていましたから。
 
 でも、色々ありまして、家を継ぐことに。

 でもね、どうせやるなら、
 思いっきりやってやろうって決めたんです。
 焼きものを通して、人の役に立てるように。 

 そこでまず取り組んだのが、今まで破棄していた
 焼きもののリサイクル。
 製造の途中で出る破損品を、何かに使えないか。」


-----人とともに生きる。


「一生懸命やってるとね、
 誰か、人が、アイデアをくれるんですよ。

 素焼きの焼きものは、炭と同じ効果があります。
 色もきれいだし、湿気剤や床下セラドライなどの
 建築資材として展開するようになりました。

 破損品を砕いて資材を作ると、
 さらに細かい粉が出ます。
 これを壁につかえないかな、と、
 現場で左官屋さんにアイデアをいただいた。

 左官屋さん、工務店さん、それに小田製陶所。
 この3者で開発したのが、「越の壁」という商品。

 そこから、遊歩道舗装(やきもの散歩道/県技術賞受賞)
 事業を阿賀野市さんと一緒に行ったり、
 地下水をコントロールするための装置、
 「CLAY-PIPE暗渠(あんきょ)地下かんがいシステム」を
 新潟大学さんと一緒に研究開発したり・・・。」

 


----「土と炎」から離れない。


「私たちは、焼物を通じて世の中のお役に立つものを提案する会社です。

 こんなことをしたい、というお客様のニーズに、
 焼物という技術で応える。

 もともとが、水甕(みずかめ)を作っていた会社です。
 水甕って生活の知恵で、その甕の中に水を入れると、
 なぜか水が悪くなりにくいものなんですね。
 でも、水道技術が上がって、水甕が必要なくなった。
 その代わり、農地改革にともなって、
 田んぼや畑をもっとコントロールするため、
 焼物の技術を変換させて、下水道用の管を作った。
 それもまたニーズがなくなってきたので、
 植木鉢だとか、他でうちの技術を応用して・・・

 焼物の技術は変わらないけど、
 商品は常に、人の生活に密着して変化してきました。

 その中で蒸しかまどを復活させられたのは、
 本物志向、世間が食に本物を求めている、
 そんな時代の流れも大きいと思います。

 タイミングが良かったですね。」



-----「蒸しかまど」復刻ストーリー


「蒸しかまどを復刻したのは、2012年。
 
 復刻することを決めてから、まずは、
 作れる人を探しました。
 愛知に職人さんをみつけて、
 うちの蒸しかまどを見ていただくと、
 「まだあったんだ!!」って、
 凄く感動してくださって。

 人、技術、原型があり、
 復刻の条件は揃いましたが、
 この小田式の蒸しかまどをつくるのは、
 誰もがはじめてのチャレンジ。
 試行錯誤の連続でした。

 商品ができてからも、
 販売ルートや、量産できない点など、
 まだまだ課題もあります。

 でもね、私たちは農家の方々の黒子です。
 蒸しかまどを作るのって、
 田んぼ用の土管をつくるのと同じで、
 農家さんのためになる仕事。

 蒸しかまどの存在が、米の増販につながれば。」






-------重要なのは、コミュニケーション。


「“昔食べた蒸しかまどごはんの美味しさが
 忘れられなくて、
 でも一升炊きじゃあ個人宅では買えないな・・・
 でも、食べたいな・・・”

 という声から生まれたのが、1合炊きの蒸しかまど。
 時間も失敗も研究も重ねて、
 集中して半年間で商品化しました。

 蒸しかまどは安いものではないし、
 1つ作るのに約1か月はかかる。
 だから、お客様とのコミュニケーションが
 自然と濃くなります。

 特に1合炊きは小さくてアレンジがききやすくて、
 こんな風に使ってみたよ!こんなレシピはどう?
 って、後日メールをいただくことも多いんですよ。

 商品を届けて、はいどうも、で終わるのではなくて、
 販売し終わってからも関係が続く。

 商品を作って売っている人間として、
 これは、冥利につきる瞬間ですね。」







--------蒸しかまどはなぜ美味しい?

「水甕もそうだけど、生活の知恵って、
 理由は先にないんですよ。
 なんでか分からないけど、水がもつ。
 なんでか分からないけど、これで炊くとおいしい。

 なぜ美味しいのかは、
 あがのがわ環境学舎さんと一緒に、
 研究をスタートしたところ。

 今年から、「蒸しかまどの美味しく炊ける理由」を
 新潟大学様と共同研究を行い理由を探っていきます。」







--------新潟には「もっとある」。


「新潟には、もっとある。
 そう思います。

 今、県内各地それぞれの地域で、
 個々に光り輝く活動が多発しています。
 阿賀野市にも、もちろんあって。

 “ここに来なければ”
 そんな、各地域ごとの魅力、
 これを強く出していくような動きが、
 有志と行政が手を組んで、
 市町村単位、地域単位で起こっています。

 それらの速度をぐっと上げて強くするには、
 個々でやっているものを一円にするような、
 チャンスがあるといいなと思います。

 個々でやっているものが、集まり、交流する、
 出会って更に面白いことが生まれる、
 そんなチャンスが、県単位でもあるといいな、
 と思っています。」




あがのがわ環境学舎 事務局の山崎さん(右)も一緒に、
おいしい蒸しかまどごはんをネスパスでふるまってくださいました。
ありがとうございました!!


◇◇◇

時代とともに変わり続ける、
小田製陶所さんの商品ラインナップ。

モノが中心でなく、
技術が中心。

変わらない技術があるからこそ、
様々な商品を展開し続けることができ、また、
かつての素晴らしい商品をも現代に伝える、
有限会社 小田製陶所。


おもてなしのひとつに、極上のごはんを。
極上のごはんを炊くなら、蒸しかまど。

そんなかつての常識が、今ふたたび、
新しいスタンダードとなっていくのでは。

今回は、そんな予感を感じさせる新潟の会社、
新潟県阿賀野市の小田製陶所さんを
ご紹介いたしました。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
有限会社小田製陶所
http://www.odakame.com/index.html

〒959-2215
新潟県阿賀野市六野瀬2312
TEL 0250-68-3432
FAX 0250-25ー7527
E-mail otoiawase@odakame.com
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

2014年3月4日火曜日

スコーンで、障がい者と共に、世界一を。青りんごの会 中村直さん~特集・新潟仕事人vol.15



夢があれば障害も乗り越えられるのでは。
スコーンで世界一を!

そう話すのは、焼きたての絶品スコーンで、お客様のみならずネスパススタッフをも魅了する、青りんごの会の中村 直さん。実は中村さんは、新潟市の障がい者支援施設のセンター長さん。


<NPO法人青りんごの会>
http://aoringo.or.jp/



◆◆◆


「青りんごの会は障がい者サポートセンターです。
 このスコーンも、センターで作ったもの。

 うちのスコーンは〝障がい者が作ったから〟
 じゃなくて、〝このスコーン最高に美味しい!〟から
 お金を出して、買ってもらっています。
 普通の一流店と、同じ考え方です。

 でも今は、障がい者施設がこの考え方をするのは、
 スタンダードじゃない。

 だからこそ、美味しさに感動してもらって、
 その上で、「実は、障がい者施設で作ったんですよ」
 って言うと、誰だって腰を抜かすはず。

 2020年、東京オリンピック。
 世界中の人が日本に来るこの機会に、
 世界中の人にこの体験をしてもらえたら、
 それって〝世界一〟。

 障がい者施設が、一流のパティシエに負けない
 こんな美味しいスコーンを作れるなんて!って、
 世界中の腰を抜かす絶好のチャンス。

 ということで、様々な方と協力して、
 障がい者と一緒にでっかい夢を叶える
 『夢スコーン世界一プロジェクト』をスタートしたところです。」



<『夢スコーン世界一プロジェクト』facebookページ>
 https://www.facebook.com/yume.scone







青りんごの会は、18~65歳までで、精神・知的・身体障がい者手帳をお持ちの方の、就労継続支援・就労移行支援をするNPO。
菓子工房やっき・やき、ミシン・織物工房わっく・わく、オーガニック野菜をつくるガッツ村の3つの事業があり、職員・ボランティアとのサポートのもと、利用者(障がい者)の自立や、本物の自信をつけることを目的とした、サポートセンター。


ここで、どうしてスコーンを?
そして、世界を目指すのはどうして?
お話を伺ってきました。




----はじまりは、「工賃3倍計画」!

「平成24年に、県から工賃2倍計画、
 「障がい者の賃金を2倍にしなさい」
 というお達しがあったんです。
 しかし、その年、うちは達成できなかった。

 だから、次年度に「じゃあ、“3倍”にしよう」と、
 独自に目標を立てた。

 3倍にするにはどうすればいいか?

 高くても売れるものを作って、
 高くても買ってくれる人が集まる場所で
 展開していかないといけない。

 人に相談して、紹介してもらって、
 新潟三越伊勢丹の催事に出展できることになりました。
 そこで、最低10万は売ってほしい、という条件をいただいた。

 障がい者施設だからって特別扱いされなかったことが良かったですね。

 単価を上げても売れるようにするにはどうしたらいいか?
 うちは量は作れない。薄利多売はできません。
 でも、美味しければ、高くても、量が作れなくたって、
 買ってもらえるんじゃないか。

 焼き立てのうちのスコーンに、私は、
 「世界一おいしい!」という自信を持っています。
 だから、催事場で焼きたてを販売するスタイルに、
 たどり着いたんです。

 まず、目標を決めて、それを達成するために進んでいく。

 当たり前のことなんですけど、
 障がい者施設にそんなことできるはずない、
 そう考えているのが、今は普通ですよね。

 〝障がい者が作ったものだから〟って、
 安く販売するのって、買い叩かれているのと
 同じなんじゃないか、とも思います。

 障がい者が作っているからこそ、です。

 サポートが必要だし、多くは作れません。
 だからこそ高く売らないと、
 働いている人たちの生活は豊かにならない。」




----「働く」よろこびは、みんな同じ。


「障がい者の就労支援=訓練なんだから、
 単純作業だけでいいんだ、
 って考える人もいるけど、それって絶対、
 本人がおもっしぇくないですよね。

 僕らだってそうでしょう?
 おもっしぇないことで、いい仕事ってできない。

 障がい者も僕らも変わらない。
 おんなじですよ。


 自分たちの作ったスコーンが、
 百貨店や東京、ネスパスで売り切れるほど
 人気で、美味しいと喜んでもらえて、
 それで、自分たちの給料が上がる。

 まさかそれを、自分たちが実現できるなんて、
 1年前は、夢物語でした。

 でも実際に、できちゃったんです。
 おもっしぇーですよね。

 それでもやっぱり、
 『そんなこと本当にできるんですか?』
 『こんなことやっても・・・』って、
 聞かれることもありますよ。

 私は、『お前次第だよ』って答えます。

 『これまで夢みたいなことが現実になったのは、
 美味しいスコーンを作ったお前がいたからだ、
 だから、できるもできないも、お前次第だ』


  って。」




----障がい者も私たちも〝変わらない〟


「障がい者と一緒に働く、っていうのが、
 自分にとっては、普通のことだった。

 18で社会に出てから、職を転々としていました。
 仕事って、稼げればいいって思ってましたから。
 造園の仕事では70歳くらいの人が〝普通〟に
 戦力だったし、競馬場で働いた時は、
 障がい者の人たちとチームを組んで、
 〝普通〟に仕事をしていた。

 その後、てっとり早く稼ごうと思って、
 トラック運転手をやっていたんですが、
 ラジオから流れてくる福祉や障がい者の問題、
 虐待とか・・・
 それにすごい、ムカムカしちゃったんですよね。

 不思議なことに、ちょうど、
 両親が福祉の仕事(青りんごの会)を
 はじめていた。

 私の父は元・市議会議員。
 父のところに障がい者の娘さんを持つお母さんから、
 〝卒業しても働くところがない〟って、
 相談があって。

 じゃあ、何か作って売りましょうか、
 ということで、母がイギリス文化が好きな人だったので、
 スコーンを作り始めた。
 それを学校バザーで売ったら、100とか200とか売れて。
 そんな『青りんごの会』の活動を、両親が始めていました。

 福祉のことに興味が湧いたことで、
 ある時に、父からこんな話を聞きました。

 『学校の先生がある障害のある子に対して、
 〝お前、バカだとは思ってたけど、障がい者だったんだな!〟
 なんて配慮のない言葉をかけられて精神障害になった、
 そんなことだってあるんだ』

 そこで、福祉の仕事をしている父を、
 はじめて尊敬したし、自分自身も、
 これはなんとかしないと、って思った。」



----そして、福祉の道へ。


「その後また運送屋をやっていたんだけど、
 有償ボランティアなども休日に始めました。

 その後、新潟県中越地震をきっかけに、
 障がい者支援の道に行こうと決めて、
 ヘルパー2級を取得。

 でも、経験もない自分は、仕事がなくてね。
 3~4か月、ニートというか引きこもりというか、
 そんな経験もしてね。笑

 その後、障がい者支援じゃなくて、
 老人施設に入社して、介護職員として働き、
 その後立ち上げに関わる仕事についたんです。

 この職場で私の人生観が変わりました。
 非常にいい時間と人に恵まれました。
 何もわからない、出来ない自分を必要としてくれた職場でした。

 親は、どーせすぐ辞めて、うちに泣きついてくるだろうと
 思っていたから...。私がデイサービスのセンター長に志願したりして、
 私がなかなか辞めないもんだから、
 驚かれましたよ。今までが今までだったしね。

 『まだ青りんごにいかないけど、
  もし親父が倒れたら行くから、まあ安心してよ。』
 なんて言ってたら・・・

 2011年に、本当に倒れてしまって。」





----青りんごへの加入と、自分自身の変化。


「前職を相談役・顧問という役員の立場にして頂き、
 今後も関われるよう段取りをしてもらいました。
 中途半端に投げ出す形になると施設に迷惑がかかるので、
 非常にありがたかったです。

 そして、2012 年に青りんごの会の副理事長兼所長となりました。

 まず、〝暇が一番人間をだめにする〟これを思いました。
 仕事が少ないと、がんばる理由もない。
 一般に売られている商品と同じ土俵では戦えないって、
 最初から、本人以外が思っている。
 『お前らにはこれしかできないんだからこれをやっておけ』
 なんて人から言われたら、誰だって、
 それ以下のことしかできないですよね。

 障がい者に限らず、
 〝どうせ〇〇したって、××だから、やんねー〟
 今、この空気を強く感じます。
 だから、夢を持てる場所をつくるのが大切だなと
 思うようになりました。



 それと、所長としての仕事ってなんだろうって
 考えるようになった。 

 職員の仕事は、障がい者を幸せにすること。
 それで障がい者がイキイキと生活できるのなら、
 それはその家族が幸せになる。
 この子を産んでよかった、って思える。
 それって、世界平和につながりますよね。

 そのために、所長としての私の仕事は、
 障がい者ではなく、職員を幸せにすることだ、と。

 自分が一番幸せじゃないと、他の人を幸せにできない。
 だから私は、一番幸せでないといけない、
 そう考えるようになりました。



 自分が幸せでいるための秘訣は2つ。
 いい〝習慣〟をすることと、
 目の前の人とコトを常に幸せにする〝心がけ〟。

 例えば、靴をそろえる習慣を自分につけて、
 どこでだっていつだって、靴をそろえる。
 「ありがとうございました」じゃなくて、
 「ありがとうございます」って言うことを徹底すれば、
 相手はまた自分のところを訪問しやすくなる。

 そういう、目の前のことをね、
 いつでも、どこでも、気を付けていると、
 なんでもないことに気付くようになるんですよ。

 それで、「自分が気になっちゃったから」、
 「当たり前のこととして」やっていたら、
 必ず誰か見ててくれて、話しかけてくれて、
 仲良くなって、褒められたり、信用してもらったり・・・

 そういう習慣・心がけって、最終的に、
 自分が一番幸せな状態になれるんだよね。



 そうして、何でも相談を受けてると、
 何でも屋みたいになるんだけど、

 でもね、頼まれごとは試されごと。

 自分ひとりでやらなくてもいい。
 できないことは、だれかを紹介すればいい。

 できませんって言っちゃえば、そこで関係はおしまい。
 まず『やります』って言って、誰かを紹介したなら、
 信用されるし、関係は続く。
 そしたら人が人をつないでくれて、世界が変わりますよ。


 とはいえ、自分だって昔は、
 自分のために世間があるとすら思っていました。苦笑
 前職時代は、あれやれ、これやれ、ってエラそうで。
 あるご老人に「中村さんは裸の王様だね」って言われて、
 みんなそう思ってんのかな、ってショックを受けたり・・・。
 本当に嫌われてましたし、イジメられたりもしました。

 自分がやりたいことを頑張るのもいいけど、
 人を応援することを、自分のやりがいにして、
 生きる力を持つことも素敵だと思うんですよね。

 私自身、青りんごに入って、自分のやることが見つかって幸せで。
 そうすると、不思議と、我欲がなくなったんですよね。
 何かをするために欲しいものは、たくさんありますが。笑」
 




「やりがいを持って働いて、お金をもらって豊かな暮らしができる。
 そんな自分の未来を、自分で思い描くことができたら、
 それで病気になる人なんていないでしょ?

 それは、障がい者だって健常者だって、それって同じです。

 生きる力になる。
 それに気づける場所が、青りんごでありたい。」






「自分は、おもっしぇーことばっかりやってる。
 だから、めちゃめちゃ忙しいけどね。

 めちゃめちゃ忙しいから、嫌いなことをやる時間なんてない。
 でもね、先をイメージしてると楽しい。

 仕事が全部楽しい人なんていないでしょ!
 って思われるかもしれないけど、
 俺は実際に、そうなんですよ。全部面白い。
 おもっしぇーことしかしてない。

 70~80年前って、今の暮らしは想像できてないですよね。
 だとしたら、今ぼくらがそんなのありえない、って
 思ってる世界は意外と速くくる。

 信じる人が増えれば。

 いつ自分が死んでも、誰かが引き継いでやってくれる環境を、
 一日でも早く作りたいですね。」





◆◆◆


「サポートすれば、競争力のある商品だってできる。
 この力って、もったいない資源だと思いませんか?

 障がい者たちがこんなにできるんなら、
 健常者だってうかうかしてらんなくなりますよね。笑
 そうすれば、未来はもっと、やばいことになる。」


中村さんが目指していることは、
『世界に発信する』のではなく、
未来のスタンダードを作ること。


「熱いねってよく言われるんだけど、
 自分としては、目の前の普通のことを
 しているだけなんだけど・・・」


中村さんのお話の中には、〝普通〟という言葉がたくさんでてきます。もしかしたら、中村さんはすでに、中村さんの考える未来にいるのかもしれません。しかし、その〝普通〟は、これからきっと広まっていく。そんな風に思わせてくれるのは、中村さんにはそれが「当たり前」で、揺らがないから。




青りんごの会の次回イベント出店は、5月頃を予定。
http://www.nico.or.jp/nespace/event.php


スコーンで世界一を。
次回のイベントも、楽しみにしています(^^)!!!