2013年12月10日火曜日

食空間をもっと自由にもっと楽しく。フードユニット"DAIDOCO"~特集・新潟仕事人vol.14


家族みんなで、誰かのつくった美味しい食事が食べたい。
たったそれだけのことなのに、諦めた経験、ありませんか?

赤ちゃん連れでレストランは・・・ 
おじいちゃんの足が悪くて店までの移動が大変。・・・

でも、ちょっと考えてみてください。
『美味しいごはんを食べる=レストランに行く』
選択肢って、これだけでしょうか?

働き方や暮らしの楽しみ方も変化している今、
食の楽しみ方にも、変化と広がりがはじまっています。
そんな流れを新潟で牽引するのが、
cateringfood design LABDAIDOCO』(ダイドコ)さん。




山倉あゆみさん、熊倉誠之助さん、佐藤千裕さん。
それぞれ食に関係した仕事をなりわいとして、
独立し起業している調理師の3人が、同じ思いとコンセプトのもとに
集まったフードユニットが、『DAIDOCO』。

今回は、新潟市北区のイベントで、
福島潟など、北区の食材を使った料理を紹介するために、
熊倉さんと山倉さんがネスパスに初登場。

DAIDOCOさんってどんなことをしている人たちなの?
お話をうかがってきました。



---DAIDOCOさんの活動について、教えてください。

(熊倉)
「新潟県内を中心に『食』を囲んだ地域の様々な活動へ調理師として参加しているフードユニットです。例えば、ケータリング(1)、出張料理、お食事会にパーティー、打ち上げや冠婚葬祭、様々な形や規模、そして自由な場所で食事を提供し、思い思いの食時間を楽しんでもらう。そういった、大切な「食空間作り」のお手伝いや、料理教室やワークショップ、イベント等では企画やデモンストレーターとしてそれぞれ得意分野を元に活動しています。

食空間にしつらえる場所も様々で、海の家や、佐渡の能舞台のある公園、企業の敷地内で大雪の中、なんてシチュエーションもありました。笑

外食=飲食店に行って・・・
料理教室=屋内で調理設備があって・・・

そう思われちゃうことが多いけど、せっかく新潟にはこんなに豊かな「食」と沢山のフィールド、いい景色や素敵な空間がある。ダイドコのコンセプトにもあるように、『食空間をもっと自由にもっと楽しく』お客様に実際想像してもらえるようなお手伝いが出来たらと思って。」


1)ケータリング
顧客の指定する元に出向いて食事を配膳、提供するサービス業のこと。





---楽しそうですね!

(山倉)
「本当に楽しいですよ!」

(熊倉)
「みんなに楽しそうですね、ってよく言ってもらうんですけど、
 僕らが一番、楽しいと思ってます(笑)


(山倉)
「都内にはケータリングチームって今までも普通にいましたけど新潟にはまだあまり普及していなかった。でも、数年前に新潟に戻った時、なんてもったいない面白いのに使ってない場所がいっぱいあるんだ!ってびっくりして。その後、初めてママになってまた、「小さな子供がいるとなかなか簡単に外食にも行けない。美味しいものを食べる事さえママには許されないのか!って色々な食の現場での不自由を知って。

それでダイドコを作った時に話し合い、大切にしたいテーマを『食卓』に決めました。

ダイドコのケータリングは「食卓」を囲んだ食空間の味方。
産まれたばかりの赤ちゃんも、おじいちゃんおばあちゃんも、みんなが一緒に食卓を囲んで、美味しいものを食べ、会話をする。そんな事が出来る食空間作りの為にご自宅等をレストランにしてしまうというケータリングの手法を始めました。

恐らくケータリングというとちょっと余裕があるセレブ層の方たちが利用するものと思われる事も多いですし、最初はそういったお客様も多かったのですが、最近やっとお客様のほうでもダイドコの楽しい利用方法をわかって来て下さったというか。日常の少しハレと感じる日、女子会、ママ会や子供のお誕生日会、法事や新築祝い等気軽に呼んで頂けるようになってきました。

食を囲んだコミュニケーションには様々な気付きが隠れている。
もっと幅広い世代の人に自分なりの食空間を楽しんでもらいたいな。」

(熊倉)
「アクティブに色々な場所にお伺いする事も制限がかかりそうで、最初は飲食店としての実店舗を持つことは考えてなかったんですが、ご縁があって、「灯りの食邸 KOKAJIYA」というレストランを、2013年9月、新潟市の岩室地区にオープンしました。

ぼくら3人はそれぞれ起業している人間の集まったチームです。
今回のKOKAJIYAは僕の会社、株式会社リトモが運営しています。

そして、プロジェクトのプランニングはプランナーとして起業した山倉が担当、内装や空間構成には新潟で活躍されているデザイナーさんクリエイターさん職人さん等沢山な方々に関わって頂き、作り上げました。地域の方にも応援して頂きながら、一階はレストランとして営業し、2Fのスペース「室礼」(しつらえ)は、カフェの他、イベント・ギャラリーなどにもなっています。」





---それぞれの強みを活かして、ユニットとして活動するDAIDOCOさん。
3人は、どんな風に出会ったんですか?

(熊倉)
「ぼくは元々調理師になりたかったわけじゃなくて(笑)海洋学を学びに大学進学と共に行った沖縄で、バイトではじめた飲食業が楽しくて。素敵な人との出会いも沢山あって勢い余って自身でカフェバーをオープン。経営と調理業務、そしてバーテンダーとしても活動していました。
その後、生まれ故郷の新潟に戻ることになり、縁があってある方のお宅にケータリングをさせて頂く機会を頂きました。それがきっかけで出張料理人の道へ。
 
そんなときに、資格を取った野菜ソムリエの会合で偶然出会ったのが東京から嫁ぎ、新潟で結婚式場専属のパティシエとして働いてきた佐藤さん。

自分の料理はデザートが弱いなと思っていたのもあって、そのときフリーランスになっていた佐藤さんに時々手伝ってもらったりデザートを外注し始めたんです。」




---その後、山倉さんとの出会いも偶然だったそう。

(熊倉)
「山倉さんとの出会いは、山倉さんが新潟に戻ってきて一年ぐらいたった時だったのかな?妹さんの結婚式がきっかけでした。

山倉さんがプランナーとして妹さんのガーデンウエディングパーティーの企画をしていたのですが、結婚式のフードの演出で洋食を提供出来る人が足りなくて探していた。
そこでその頃実は妹さんの暮らす「越前浜」というエリアによくケータリングにうかがっていたご縁で妹さんから山倉さんを紹介して頂いて。

打ち合わせで「はじめまして」だったんですが、話していたらその日のうちに意気投合。

ちょうどその頃、料理を作るための自分の作業場が欲しいなと思っていて、雑談でそんな話をしたら、山倉さんが、「あ、私のアトリエ使っていいですよ。私今こう見えて産休中なので」って言ってくれて。

その日会った人間に、ですよ。すごいですよね。笑」

(山倉)
「だって本当にその頃まだ出産して半年しかたってなくて。
プロデュースした結婚式の当日も2時間毎に授乳しながら頑張りました(笑)

自身の仕事はもうちょっとゆっくり娘とすごしたいしお休み期間と考えていたから、妹から結婚式のプランニングを「お願い!」って言われた時は、えっ!!もう私働いちゃうの?!って。笑
私が拠点にしていた母の実家を改装したアトリエもしばらく使わない予定だったから、ごく自然に、どうぞって言いました。

でも、それの結婚式をきっかけに結局仕事復帰し、結婚式が7月でダイドコ結成がその翌月の8月なんですが…笑」





---料理のデモンストレーションで感じたんですが、山倉さんは
とてもお話しが上手ですよね。どういった立ち位置で、DAIDOCO
関わっていらっしゃるのでしょうか?

(山倉)
「私は元はパティシエですが(今でもパティシエですが笑)今、ダイドコではプランナーという役割に徹しています。

料理をつくる二人とは違って、食空間を考え、伝える役割です。

例えば、お客様から来たお仕事をそのままうけるのではなく、そのオーダーの言葉の中にお客様の隠れた要望や「食」に関する気付きや楽しみを見つけて、内容に落とし込む。その真意を実際料理する二人に伝え、料理からアプローチ出来る部分を作る。そして関係するプロジェクトの皆さんとの中で全体的な調整をする。

活動した事はそこだけで終わらないように必ず記録し、文章におこし、次につなげる。
だから、DIDOCOでの担当は企画、広報係ですかね。

皆さんの前でお話しすることに関しては、自由が丘の製菓材料店『cuoca』で、食材コンシェルジュやデモンストレーターをやっていた経験が役に立っています。製菓材料や器具を買ってもらうには、知識も必要だし何より伝えるという事が出来なきゃ行けない。楽しいと思ってもらえるように少しは面白いこともはさんだりして(笑)





実は私、もともと、19歳の時に新潟で調理師免許を取りその後パティシエとして働いていました。大好きな仕事でしたがパティシエって労働時間が本当に長い。もしも結婚・出産したら辞めざるを得ない現実を思い知りました。実際に家庭と仕事を両立している人はあの頃本当に少なくて。

幸いその頃勤めていたケーキ屋さんのオーナーシェフは職人としてではなく長年教育者としてパティシエを育ててきた製菓学校の先生だった方でした。それでそんな私の気持ちも理解してくれて。「あゆみちゃんだったら自分なりの働きかた、見つけられるかもね」って背中を押して下さったりして。

それで一生「お菓子の世界」にいられるように23歳で独立し、オーダーメイドのパティシエとして自分なりに「お菓子の仕事」を始めるようになりました。
営業も、製造も全部自分でやる。フリーランスのパティシエです。
カフェやレストラン、居酒屋等のデザートメニューを考えたり、デザートのパーツを外注としてオーダーメイドしたり。活動場所も東京に出たり様々なプロジェクトに関わったり時にはお店にスタッフとして入ったり。自分なりに選んだ場所でどんどん働き、経験を積んでいきました。

女性だから仕事によっては一生ずっとは働けない、っていうのも悲しい話。そんなボーダーのある事を超えていきたかった。それは実はダイドコみんなもそう思っています。働く事に対していろんなハードルがあるとしたら、それを乗り越える方法をみんなで探していきたい。

最近は、ダイドコパティシエ佐藤が考案した「ママパティシエ」というチームも組んで、子供を持つ昔は優秀だったママパティシエたちと一緒に商品作りもしています。
もちろんそれぞれ子育てしながらですので時間の制約等もありますがそこは調整しつつカバーし合って。しかしみんな、腕がいい! 働ける仕組みがないだけで。もったいない!」




---とっても楽しそうにお仕事をする、DAIDOCOさん。
辛いことや苦労は、ありますか?

(山倉)
「苦労なんて・・・・

毎回!笑
でも、毎回仕事の終わったあとの達成感が半端じゃない。
だからやめられない。

100食ぐらい用意するイベントをスタッフ3人でやるって、おかしいじゃないですか。笑 イベント前日は毎回徹夜。でも、午前3時頃、みんなが意気消沈して無口になってくると、熊倉のiPhoneから北島三郎の祭りが流れて来るんです。

それが流れるとみんな、ちょっと笑いがおきて「またこれー?仕方ないなー よぉ~し!やるかー!」みたいな。笑」




(熊倉)
「体力的にきついことはあるけど、いろんな食材との出会いがあって面白い。

新潟の食材はとにかく全部おもしろいけど、特にインパクトがあったのは、野生のものかなあ。稲作の終わった田んぼに降り立つ野鴨をまだ温かいまま1匹渡されて、何月何日にこれで料理を作ってほしい、と言われる。私達の年代でそんな野生のものを調理する機会など料理人でもなかなかありません。そこから図書館に駆け込んで、これはどんな生きもので・・・ってところから必死に調べるんです。

珍しい食材、特に野生のものは初めて見るものだらけ。
 今では得意料理の一つです。

知ってましたか?美味しい新米のとれた後、実は新潟の冬の田んぼにはジビエとワインという楽しみ方もあるんですよー。

新潟は海もあって山もあって平野には潟や川が流れている。砂地や泥等様々な環境から個性的で多種の食材が出来上がる。新しい食材とは常に、出会いと格闘の連続。笑」

(山倉)
「ちなみに今回の新潟市北区からは潟でとれる「菱の実」を持ってきて試食してもらいました。これも正にその場所にいかないと食べる事の出来ない幻の新潟食材。

潟の管理をされているおじさんたちにお話を聞きにいき、特別にお譲りしてもらってきました。地域で活動されている皆さんはいつでも私達のよい先生でありお手本。でもそんな出会いから改めて食文化を学んだり、地域の成り立ちを知ったり。新しい出会いから様々な「気付き」を常にもらっています。

それだけ自分たちの年代にはない価値観や今大切にしないと無くなってしまうような大切な事柄が「食」の世界には沢山潜んでいます。」

イベントでの1コマ。新潟市東京事務所の職員さんと一緒に。
今回は、どんな出会いがあったのでしょうか?



---これからのDAIDOCOについて

(山倉)
「そもそもDAIDOCOって何?ってよく聞かれるんですけど、こうだ!って答えられちゃったら「そういうチーム」になっちゃう。その答えを出そうと思ったこともあるけど、今は、その答えはなくてもいいのかもと思えるようになってきました。

 一緒にやってるライターさんに最近言われたんですが『ダイドコは常に自問自答してる感じがいいですね』って。

自分たちでも、その「疑問」の部分を大切にしていきたいと思っています。その都度出てくる問題や案件に、自分のそのとき持っているものでアプローチが出来る柔軟でアクティブな食の専門チームでありたいです。」

(熊倉)
「食に関して困ってる。そうだダイドコに聞いてみよう。
そんな風に思ってもらえるようなプロフェッショナルチームになれたらいいな。」

(山倉)
「もっと勉強しなきゃいけない事だらけだよ。道のりは長い…笑」







(熊倉)「来年の目標は…レストランの経営はもちろんですが、実は2人目の子供がもうすぐ産まれるので、ばりばり働いて育児もする『スーパー育メンパパ』を目指します!家庭と仕事の両立は大事!」

(山倉)「私は今年作った「キッチンカー」を使ってもっともっと色んな場所を食空間にしつらえたり、食に関する「気付き」を提供出来る食育の現場に関わっていきたいと思っています。願わくばそろそろもう一度働く妊婦にもなりたい笑」

 ◇◇◇

様々な人・場所と次々とコラボして、
続々と面白いことを生み出す。
変化しつづけること、柔軟で居続けること。
生活を大切にする事。
その根幹には、「楽しい!」という、
あっけらかんとした強さと明るさがありました。

食は、これからどんな風に、生活者の中で位置づけられていくのでしょうか。
間違いなく、もっともっと楽しくなるのだと、DAIDOCOさんたちを見ていると、
思わされます。

現在注目すべき、新潟のフードユニット。
DAIDOCOさんをご紹介しました。








2013年12月5日木曜日

映画『ゆめのかよいじ』---五藤利弘監督@ネスパス


中越地震から10年。

そんな区切りの年、2014年も間近に迫る、
2013年12月14日(土)、長岡市出身・五藤利弘監督による、
栃尾を舞台にした映画『ゆめのかよいじ』が、
東京・渋谷にて公開されます。


『ゆめのかよいじ』公式HP
http://yumenokayoiji.jp/


映画『ゆめのかよいじ』は、大野安之の人気コミックの実写映画化です。
2人の少女の成長と、ファンタジックなラブストーリー。
栃尾の美しい風景とともに、中越地震をモチーフにしています。

◇◇◇
この映画を撮影した五藤監督は、新潟県長岡市出身。
テレビや映像作品の企画・脚本・演出、映画監督で、
代表作は、同じく栃尾で撮影された映画『モノクロームの少女』(09')。
 (『モノクロームの少女』公式HP http://www.is-field.com/monochrome/ )



---どうして『ゆめのかよいじ』を映画化しようと思われたのですか?


実は、前作『モノクロームの少女』を撮影するより前に、
『ゆめのかよいじ』の企画があったんです。

でも、予算の関係で『ゆめの・・・』ではなくて、
『モノクロームの少女』を撮影しました。
企画自体は2004年からスタートしていたので、
もう、10年前ですね。




---10年越し!
主にテレビの企画・脚本・演出を主軸に活躍する五藤監督。
どうして、長岡・栃尾を舞台にした映画を撮ろうと思われたのでしょうか?

きっかけは、中越地震。
故郷が被害を受けて「自分にできることはなんだろう」と考えたんです。
自分は映像に携わってきたので、映像として記録することだなと。
それで、映画を作ろうと思いました。

しかし、映像の仕事をしていたといっても、
自分でお金を集めて、自分の作りたいものを曲げずに作る、
その共感者を探すというのは、初めての経験で、
なかなか難しいこともありました。

決まりかけていたスポンサーのお話が
流れてしまったこともありましたが、最終的には、
元栃尾市長さんが「このまちが映画になるんだったら!」と
音頭をとってくださって、地元のたくさんの方々に応援して
いただいて、実現したのが『モノクロームの少女』。

自分たちの地元でも映画が撮れるんだ!
こんなに良いところだったんだ~!

そんな風に、地元の方々に喜んでいただける作品になりました。

その後、『モノクロームの少女』を観て下さった茨城の方に
「うちの地元でも映画を撮りたい」と、お声掛けいただいて作ったのが
『花蓮~かれん~』(2014年公開予定)。
茨城県の土浦や霞ケ浦周辺を舞台にした作品です。
ここで、今の助監督である川畑さんとも出会いました。

地元が映画になるって、嬉しいじゃないですか。

そんな地元の方の応援や気持ちがあって、
じゃあ2本目も、ということで、
『ゆめのかよいじ』につながっていったんです。


店頭で、栃尾の「あぶらげんしんくん」と
扇澤プロデューサーと一緒に、PR!




---今作では、予算面はどうやってクリアしたのでしょうか?

いや、実は・・・
予算は予定の3分の1くらいしかなかったんです。笑

でも、メインキャストがすごく良くて。
プロデューサーが「今しかないよ!」と言ってくれて、
予算面をクリアする前に撮り始めました。

その後、東日本大震災があり、
どうしても仕上げや宣伝費が足りなくなって・・・。
『モノクロームの少女』からずっと支えて下さって来た
東京栃尾郷人会会長さんにご協賛いただき、
最小限コストで公開にこぎつけました。

あぶらげんしんくんも応援しています!



---ところで、監督が映像のお仕事を志したきっかけは?

子供の頃から映画をつくりたかったんです。
大学で東京に進学しました。普通大学だったんですが、
自主映画などを制作していて、アルバイトで映画制作現場に入りました。

ホースを持って雨を降らせたり、崖くずれのシーンで石を転がしたり・・・
当時の自分は、これは遠回りだな、って思ってしまったんです。
それで、自分は脚本から映画に関わりたいと思って、
シナリオスクールに通い始めたのが大学4年の時。
そこでの人脈でお仕事をいただくようになり、フリーランスで約20年。

実家は農家で、親からは「5年やってダメだったら帰ってこい」と
言われていました。その期間を延ばすために、なんでもいいから
がむしゃらに仕事をして、現在にいたります。

映画の話をする時の、真剣なまなざし。



---故郷・長岡について思うこと

若いころはそうでもなかったんですが、
祖母の他界、母の他界が続いた時期があって、
家族や、故郷について考えるようになりました。
その後、2004年に中越地震があって、
地元を舞台にした映画作りに踏み出して・・・

どうあっても、故郷は故郷。
だんだん、自分のルーツというか、考えるようになってきました。

撮影の中で、地元の中でとても良い場所を見つけました。
栃尾のとある川にかかっている橋なんですが、
長岡の中で自分が一番好きな場所です。
映画にも何度も出てきているので、ぜひ探してみてください。


◆◆◆

穏やかな口調で、優しく、丁寧に語る五藤監督。
そんな監督の温かさが、作品にもにじみ出て、
世界観を作っているのかもしれないな、と思いました。

お忙しい中、貴重なお話ありがとうございました。

◆◆◆

最後に・・・・

一緒にPRに来てくださっていた、
栃尾の油揚げの豆撰”  取締役 多田さんから、
熱いメッセージをお預かりしました。

豆撰 http://mamesen.jp/ 


「わたし、もう3回見ちゃった!!

 監督の映像は特別に編集していただいて、
 うちのお店でも流しているんだけど、本当に綺麗!

 自分の故郷が映画になるってやっぱり嬉しいもの。
 『ゆめのかよいじ』は、恋のお話なんだけど、
 中越地震も出てきて・・・

 も~、ぜひ見てほしいです!!!!」


『ゆめのかよいじ』は2013年12月14日(土)~
ヒューマントラストシネマ渋谷で公開スタート!
全国でも順次ロードショー予定。最新情報は、
facebookからどうぞ!

私も公開を楽しみにしているうちのひとり。

栃尾出身ならずとも、要チェックです。



公開を楽しみにいています!!!

2013年10月18日金曜日

10/17(木) 栃窪小学校さんの「とちっこ米」販売会♪

日に日に秋になっていきますね~

秋といえば、
新潟は収穫のシーズン、
一方、表参道には・・・


こんな光景が(^^)!!

新潟県南魚沼市立栃窪小学校、
全校児童12名が、自分たちで作った
「とちっこ米」を、修学旅行で販売に来てくれました~!



栃窪小学校では、「総合学習」の時間を利用し、
ご近所の農家の方の田んぼを借りて、自分たちの手で、
完全無農薬・天日干しの「とちっこ米」を作っています。
この取り組みは、今年で6年目。



ねじりはちまきをマキマキ・・・・

円陣を組んで・・・


いざ、スタート!



と同時に、ものすごく元気な子どもたちの声が、
表参道に響き渡りました!!
「なんだなんだ!?」と道行く人が振り返ります。
 

チラシ配りも積極的!

 

海外の方もいらっしゃいました☆

見事完売!!
みんなでバンザーイ!


栃窪小学校のみなさんは、去年もこの時期にネスパスに
来てくださったのですが、今年は子どもたちのパワーが
一段と増していたように思いました!!パワフル!!

大人顔負けの声量での呼び込み、
みんな、ありがとうございました^^



ちなみに、みんなはもう、とちっこ米の新米食べた?と聞くと、
「まだ食べてない。来週食べるんだよ~。」とのこと。

栃窪小学校のみなさん、美味しい新米を食べて、
これからも元気いっぱいがんばってくださいね~☆

2013年9月30日月曜日

新潟仕事人vol.13~「けあーず」坂内机由さん


大きくないから、ちょうどいい。(護摩堂山)
遠すぎなくて、ちょうどいい。(新潟市や燕三条からの交通アクセス)
見渡せるから、ちょうどいい。(遊・YOUランド)

だから田上は、ちょうどいい。
http://www.town.tagami.niigata.jp/

・・・・・
加茂市の上、新潟市南区の下。
そこに、“ちょうどいい”田上町はあります。

今回ご紹介するのは、そんな田上町で、
シルバー人材派遣や、便利屋といったお仕事をされている、
「けあーず」のセンター長、坂内机由(さかうちきよし)さん。

坂内さん(左)と、「あじさい塾」会長・今井さん(右)
坂内さんは、田上町の竹を活用し、まちづくりや里山再生を目指す
「あじさい塾」の会員さんでもあります。


「長く生きていくために、病院で無理をするのではなく、
 思うように生きて、最後を迎える。
 それでいいんじゃないかと思うんだよね。」



そう話してくれた、阪内さん。そうです、けあーずは、
訪問介護&シルバー人材派遣&便利屋を営む会社です。
そんなけあーずさんが、あじさい塾さんと一緒に
イベントに持ってきた商品は・・・

「煤竹(すすたけ)」。


 


「すすたけは、もともとは日本の古民家でできる、
 燻された竹です。

 いろりの煤(すす)によって、吊り下げ部分の竹が
 いぶされ、強く、美しく変化するんです。

 本来は200年ほどの時間をかけて作られる資材で、
 高級品なんですが、田上町は竹の産地ということで、
 約1年ほど前から、煤竹づくりをはじめました。

 これは、竹林の多い田上町の里山再生事業、
 かぐやの里再生計画のひとつです。」
(「あじさい塾」今井会長より)

 


◆◆
あじさい塾さんと一緒に煤竹づくりをしている「けあーず」さん。
えっと、介護関係の会社さんで、間違いないのでしょうか?

「はい。笑
 けあーずは、 訪問介護とシルバー人材派遣業、
 それに便利屋をやっている、民間の会社です。

 うちの基本は「どんな仕事も断らない」。
 掃除、伐採、畑仕事、今年多いのは蜂の巣の駆除、
 依頼があればほとんどなんでもやりますよ。

 田上町はたけのこが特産で、竹林も多い。
 竹は成長が早くて、すぐにやぶになる。

 なので、町の竹林整備の仕事も受けています。
 そんな出会いから、竹を使った商品開発にも
 取り組んでいるんです。

 4年前から干したけのこを作っていますし、
 煤竹も今年からスタートした取り組みです。
  ほら、この煤竹には、
 けあーずのマークも入っているんですよ~!」

 

・・・・・・

どうして、煤竹だったのでしょうか?

「昔、竹炭がブームだったころに
 田上町は竹炭づくりのための窯を作っていたんです。
 これを利用して、竹炭以外のものをつくれないかと。

 開発は、加茂市の新潟県技術研究所に手助けを
 していただいて、ずいぶんとスムーズに進みました。
 竹を燻製する独自の技術で、本来、200年だとか、
 長い長い年月を経て生まれる煤竹を、量産できる
 ようになりました。

 現在の課題は、買い手をみつけること。
 建具屋さんだとか、建築資材、古民家再生やお店の
 ディスプレイなんかに活用してもらえたらいいな、
 協力していけたらな、と思っています。」



・・・・・・

けあーずさんは、どうして「何でもやる会社」になったのでしょうか。

「もともとは、田上町商工部との関係で、研修事業などを行う
 株式会社フィクスという会社からスタートしたんです。
 みんなでお金を積み立てて、何か地域のためになる事業をしようと。

 事業決めに迷っていた時に、私個人の話ではありますが、
 国の人材研修基金というのに参加する機会があったんです。
 そこで私は、オーストラリアの介護現場を見ることになりました。
 平成7年のことでした。

 オーストラリアも日本と同じで、高齢化、核家族化している。
 しかし日本と違うのは、老人ホームの選び方でした。

 日本では、老人ホームは家族が決めることが多いですよね。
 オーストラリアでは、ホームは本人が決めるのが普通。
 まだ元気なうちに、自分たちでホームを見て回って、自分で選んで、
 自分たちの家を処分して、老後はホームに入る。」




・・・・・・
オーストラリアのこの現場を見て、田上町に戻ってきた阪内さん。
平成12年に、けあーずとしての事業がスタート。

「田上町には公営のシルバー人材センターがないんです。
 たまたまだったけど、私が研修でオーストラリアの介護現場を見て、
 それでこの分野のお仕事が始まりました。

 シルバー人材センターは、市町村単位なので、
 住んでいる市町村でしか、登録ができないという壁があります。
 つまり、田上の元気なおじいちゃん・おばあちゃんは、
 働きたくても働く場所がなかったんですよね。

 設立当時の田上町の65歳以上の人口は約2700人。
 最近の定年後の方々は、お元気ですから。
 立ち上げ当初に、登録応募が160名もあって、驚かされました。

 民間でやるのが難しい商売だけど、
働きたいニーズも、仕事のニーズも、両方があったから、
 14年も続けてこられたのだと思います。」
・・・・・・

たしかに、シルバー人材センターというと、
公的機関のイメージです。民間でやることのむずかしさは?

「やはりお値段が高いです。

 でも、その分サービスの質が良い、と言ってもらっています。
 リピートして使って下さる方も多いんですよ。
 現在、シルバー人材の登録者は約160名。
 実際、よく現場に出てくれているのは30名くらい。
 少ないでしょう?
 
 この少ない人数、というのがうちの強み。
 
 みんなの得意分野を把握できていますから
 依頼内容に合った人材を派遣できるんです。

 これが、大きなまちで人数が増えると、
 登録者の能力を把握しきれなくなるわけです。
 仕事を頼んでも、どんな人が来るか分からないから、
 どうしてもアタリハズレがある。

 うちは少人数・小さな地域。
 だからできるサービスがある。」


・・・・・・・
現在の介護、新潟県の介護について、
どんな風に感じていらっしゃいますか?

「長岡にあるこぶし園さんってご存知ですか?
 小規模多機能型居宅介護に取り組んでいる、老人ホームのひとつです。

 小規模多機能型居宅介護への移行と、
 医療関係者の介護に対する正しい理解。
 これからは、その2つが必要とされるのではと思っています。

 例えば、病院ではナースコールを押せば、
 確実に、すぐに、看護師さんが来てくれますよね。
 それを、1小学校区くらいの範囲でできないか、と。

 やっぱり、ぎりぎりまで自宅にいるのが理想ですよね。
 病院や施設で延命するよりも。
 しかし、老々介護や、独居世帯も増えている。
 家族の負担だってある。現実は、厳しいですよね。

 だけど、たとえば、1日1回、地域を何の用がなくても
 巡回(ごあいさつ)するヘルパーさんがいて、
 何か変だぞと思ったら、病院に連れていけるような
 そんな仕組みがあれば、もう少し、変わるんじゃないでしょうか。

 そのためには、病院の中に一定数の介護者用のベッドの
 確保が必要だったり、クリアしなくてはいけない問題も多いですが。」


・・・・・・・
医療関係者からの理解、というのは?


「少し前までは、介護と医療の問題があって、
 ヘルパーの医療行為は今ほど認められていなかった。
 極端な話が、介護の人間は軟膏も湿布も、ぬってあげられなかった。
 介護はあくまで補助、という見方が、まだまだ根強いのが現実です。

 そうではなくて、医療にしかできない範囲があって、
 介護にしかできない範囲がある。サービスをする側も受ける側も、
 その違いを理解して、うまく組み合わせて、お互いに対等な立場で、
 尊重しあえていけたらいいなと思います。

 最近では病院などで介護に対する勉強会などもあって、
 徐々に変わってきたかな、と思います。
 国や県や制度から変わっていくことも、必要だと感じています。」

・・・・・・・・

介護の仕事は、要介護者が病院へいけば収入はなくなる。
また、収入の面や業務内容などさまざまな面から離職率が高い。
それでも、この仕事を続ける理由とは?

「地域の方々に支えられていると思います。
 便利屋をやっていて、コミュニケーションが密になる。
 ありがとうと言ってもらえるのは、やっぱりうれしい。」



・・・・・・・・

煤竹ってなんですか?という会話が、
まさか、
介護問題のお話につながるとは・・・

どうしてその商品を作っているのか、
背景にあるのはいつも現実。

日本は超高齢社会。
介護の問題は、親を持つすべての人にとって、
老後の問題は、これから年老いていくすべての人にとって、
切り離せない、現実問題。

今回は、田上町の「けあーず」さんをご紹介しました。